やばみちゃんのやばみ

決して腐りませんよ

哲学、倫理、ウェルネス、の3教科の講義で出生前診断について考えろ、障害がある子供が生まれた時に堕胎してもよいか。自分ならどうするか、考えろ、と言われてすごく嫌だった。私が嫌かどうかに関係なく、悪い。 自分や近しい人が当事者になる前に考えておくべきであると言った教員がいたが、本当にそうなんだろうか、そんなモラル振りかざすなよ、自分が考えるべきだと思った時に考えればよくないか。 人間性を肯定するために学問があるとか、全然信じてない、言葉や論理は人間の感情と関係ないオートマティックな運動をする。

生きてたくないなぁ。

なんかもはやすでに色々自分は狂ってるのかなぁと思うくらいいつも怒っていて悲しくてわけがわからない。

ニーチェ、とか、なんで人を殺してはいけないの、とか、私は殺したくないから殺せないし、間違っててもよい、としか言えないな

だって、お前も殺されるじゃん、で説得できない人の説得できなさは、わたしもわかってたよ、善くなりたいとおもわない人のことも知ってるし、善くなりたいとおもわないといけない、と思わないといけないのはなぜか、とか、理由ないし、フィクションでしかないと思う。わたしはそれを内面化しているからその外に行った人に届く言葉は持ち得ない、今のところ無力だ。

永井均の本に、なぜ殺人をしてはいけないか、はきょくたんだとして、なぜいじめをしてはいけないか、という問いならどうだ、そのことで罰を受けても構わないし、いじめをすると気持ちよくなる、という、人間をどう考えたら良いかという問いがあって、いじめは極端じゃないんだな、と思ったら、つらくなった 何の問題にも巻き込まれた当事者がいて、その人の目に触れることを考えたら、そのことを想定してもなお書くべきだと思う?今考えている最中だが、川上未映子のヘヴンという小説はいじめが題材として使われてはいるが、いじめ小説として読まれることは考えていた、と作者が言ってた、わたしはいじめを材料にした哲学小説だと思ったけど、いじめ小説としても読んだ 書くことは書かないことより世界に毒や苦痛を増やすんじゃないか、たくさんの人の救いになったとしても、同じこと