やばみちゃんのやばみ

決して腐りませんよ

下北沢の路上で歌と演奏とポエトリーリーディングを友達とやることにした、きょういまから、あとは饒舌体のことと、社会学の言葉と文学の言葉の関係について考えてみた

カフカ中原昌也西村賢太川上未映子町田康

津村記久子、松村太郎、木下古栗、古くは清水義範とかいたかなあ、筒井康隆って実験小説やってたけどぜんていがふるいからつまんねえし単純に差別的だからもう読まねえし書くな、穂村弘とかはやばい。

絲山秋子笙野頼子舞城王太郎ラノベやってた頃の桜庭一樹宮崎誉子海猫沢めろん、少年アヤ、金原ひとみ多和田葉子

かなり最近の桐野夏生はちょっとやってたとおもう、それと短歌の人々、詩人などのあいだで冗談を多発する饒舌体の文体は流行ったし、作家同士でもよく対談してたり、接続があったように思う

美しい文や修飾は醜いものだからどんどん

破壊せよ、というような、美文にフェティッシュを求めない姿勢が好きだった、そのわりに、人間の感受性、愛、みたいなものを、おそるおそる信じようとしているところに、冷たい頭の良さだけでない、人間の生理のようなものを感じて、

ぼく、ぱんくろっくが、すきだ

というような気持ちで、わたしはそれらの小説にとても深く愛着を寄せてきた。もう信仰終わったのもあるんだけどね。

私がすごく小説にはまっていて、神聖だと思って読んでいた、小6から20歳くらいまで

詩や短歌の世界でも、また、漫画の世界でも

演劇や宗教や詩や音楽からのジャンル越境が起きていて、でもわたしが入っていた文芸部や小説研究会、読書人のなんちゃらなどでも驚くほど読んでいるひとがいなくてニッチ、文壇の分断によりパージされて雑誌に乗れなくなったひともいるはず、

山田詠美みたいな古式ゆかしい文学部学級委員的自称反体制みたいな人は彼らの書いたものを、なんか、褒めはするけど読めてなくてすごいどうでもよい揚げ足とかとってた、クラスの端っこでいじめられながら不登校になりながら、かきたくない、かきたくない、とうだうだつるんでいる、なんだかんだかきたくない!とかいてしまう変な人たちという感じで面白かった、とても

さっきそういう一連の流れの文体を真似して、反省文というエッセイだかブログをはいえきさんというへんないきものを、悪いかなぁとは思いつつ結局また搾取しつつ書いてみて、思ったのは、頑張って真似てもやはり、わたしはこなれていないから全然面白くないなぁということだった、少しは面白い、でも、盛り上がりに欠ける。頭でやってるのがばれている。

ふざける、はずれるということをやるならちゃんとしろよ、ということがあると思う

なんで面白くないか自分なりに考えたのだが、たぶんふざけ切れていない慣用句、たとえば、ナイアガラの滝を、なんのひねりもなく入れているのと、口に出した時に引っかかる、いや引っかかるのはよいことなんだけど、流れるべきところで引っかかっているからすごく読んでいて恥ずかしくなる

きちんと暴れ方を踏まえているひとのものは、どんなに奇矯なことが書いてあっても、神聖な、ここには本当の言葉が書いてある、的や聖なる雰囲気を醸し出す。

大学の文学部を受けるから、創作があるコースに行くことも少しは考えたのだったけれど、その中の言語に沿って何か歪められるよりは、私は独学の方が良いということを思って、先生と合わなかったら、たぶん単位のためにクソみたいな文出して大学卒業しちゃうんだろう、それは自分の中の金に取り込まれてない領域を掘り崩すことになりはしまいか、と思った、歴史の学部にいるから、歴史哲学とかポスコロとか、文学そのものに包摂される、ときもあるけど一応ジャンルとしてはそうではないものをやって、いろいろ持ち帰って文学修行したほうがテリトリー縮小しなくてよいかなと思っていた。

ま、真面目に考えて入るのばからしいよ、大学はクソだよ

それと、やはり書くより読むほうがすごい楽しい、あとラク。だから書きあぐねてるんだよね、職失ったら小説頑張って書こうかなぁ、月80,000くらいもらえてそれで食えたら人生から課題消えるようなもんでは、いや、そんなわけない、生活上、経済上の困難は少なくとも消えるのではないか?

だがしかしめんどくせえわ

語り口をオーソドックスなものに変えて、ポピュラーの皮をかぶって、風俗の問題点、ピンクウォッシュとは、それと社会運動論やらなんやら、ちょっとカネもらって、もしくはおごってもらって、投げ銭式で人前でしゃべることになった

わたしは、論理の人間ではないから、不得手としている論理をマホウトタマシイトリラックマを裏側でミックスさせて燃料にしながら、アウトプットはぱっとみろんりてき、というようななんかを作るためにいまどう喋ろうか考えている。アカデミアとの接続とかなんらかのバックボーンとかないわたしのことをわざわざ見つけ出して話をさせてくれる、招いてくれるひとがいることはありがたい、役に立てるならよろこんで立つけど、嫌なものに包摂されて加担させられる気配がしたら、うまく違和感を言語化できないとしても、虫の知らせを信じておんでてやろうとおもう。わたしの内部ではぬいぐるみと文学が稼動しているだけなんで本当は真面目でも論理的でもない。真面目に話すけど、嘘をついている気持ちになるだろうな。

今日は下北の路上で楽器の演奏と詩の音読、少し歌を歌う、友達が昔書いたポエムっぽい厭世的な詩を百五十円で提供してくれたり、これ読んだら三百円あげる、と詩集を紹介してくれたりした。タンバリンは百均で用意する。割り箸と紙コップみたいな材料でも感情があればたぶん創作は可能だ。がんばる。